テレビがないので時世に疎い。気が付いたら「コロナ禍」は終息していて、話題は「ワクチン禍」になっていた。いずれも人災である。
ほんの2~3年前は「ワクチンは善」という風潮が強かったのに、少し時が経ったら今度は「アレは悪だ」という流れになっている。なんといったらいいのか、違和感しかない。戦中の鬼畜米英から一転、一夜にしてアメリカは救世主、軍部は戦犯という主体性のなさ、理性の薄弱さから何も変わっていない。母性社会日本の病理である。
コロナ禍のさ中に、一人のプロ野球選手がワクチン接種から間もなくして急逝したニュースを見た。私はこの時点で「何かおかしいのではないか」と周囲の人たちに漏らしたが、当時まともに話を聞く人は皆無だった。ワクチンを否定するなど陰謀論者かという人もいた。接種後の事故は個人差によるものであり、レアケースであるとして現実に目をつぶり事実に向き合おうとしなかったのである。中には、A社のワクチンは良いがB社のはご免だ、などと得々と語っている人もいた。いずれも周到に操作された報道という噂レベルの情報を基にした「確信」的態度であったのが印象的である。
昔から「溺れる者は藁をも掴む」と言うように、不安に駆られた者は本来頼るべからざるものにまでしがみついてしまう。柱に寄りかかって立っていれば、柱が崩れると同時に運命を共にしてしまう。柱を怒っても仕方のないことは明白である。
事実確認、真実の究明を怠り、未知のワクチンを計画的に推奨してきた体制側の責任回避的態度も見苦しい。お上は自らの行いの責任から逃れようとし、被害をこうむった国民もお上のやり方を批判する。「いのち」という文字通り掛け替えのないものに対して何かを為す(為した)、という重責に対し、どちらも責任を負おうとしない。こういう人間がはびこる社会が高尚な文明だとは私には思えない。「いのち」や「からだ」というものが紙屑のように扱われる現実を前に、誰も何も感じないのだろうか。
少し視点を変えるが、ワクチンを是とする人も非とする人も、よく見ていると論理的根拠に基づくかというとそうとも言えない。人によってはそれらしい理屈やデータは持ってくるけれども、それ以前に「こうに決まっている」とか「そんなわけないだろう」という思い込みが存在する。「専門家」の中にまで、事実をその通り見ない人がいる。この時データはその主張する所の示威目的として、都合の良いものが選定され利用されるに過ぎない。
医学の祖とされる古代ギリシャのヒポクラテスは事実から学べ、事実を敬い注意深く観察しろと諭している。それくらい人間は事実や現実をその通り観るのが苦手である。科学が複雑多岐に発達しても、それを扱う人間は事実以前の「こうだろう」と思い込みに振り回されやすいのだ。その為にデータが本来の意味をなさない。
この習性をも理解して人間の心を上手く導く方法を講じない限り、科学の威力は正しい目標のみには向かわず、時としてそれを扱う人間に牙を向き破壊的結果をもたらすことは歴史のよく示すところである。
つまるとこと、その「こうだろう」という感覚の部分がむしろ重要になってくる。別な言い方をすれば「勘」だ。新薬としてコロナワクチンが発表された時点ですでに賛否の声は上がっていた。が、賛も否も予めその人の中にあったのだ。勘のいい人は瞬時に正解を嗅ぎ分ける。整体で大事にするのがこの「勘」なのである。
薬害というものは何も今に始まったことではない。かつてサリドマイドという睡眠薬を飲んだ妊婦から奇形の子どもが生まれる恐ろしい事件があったが、中には一回飲んだだけで「何かおかしい」といって即服用停止した人もいたという。勘の良い人だったといえる。
勘は時に生死を分かつ。勘を鈍らせてはいけない。知識に汚染された頭でも、意識を静めればすぐに真実が現前する。
勘は意識の原点だ。よく生きようと思えば、何よりもまず勘を曇らせない生活を心掛けるべきだ。