個人差は入口か 逃げ口か
野口晴哉
体育の場合でも、医療の場合でも、個人差を言う時はいつも逃げ口上の時である。何故、個人差ということで逃げるのかというと、そのことが分からないからである。
そして、その行為する責任を、その個人に押しつけて、指導者または医者の責任を少なくしている。ペニシリンショック死の特異体質、生理構造の個人的特性等々、逃げる為に個人差は使われているが、これを入口として研究を進めない限り、体育は個人の健康増進に寄与しないし、医術は医学のものになって、いつになっても個人のものにならないのは当然であろう。
『月刊全生』平成11年10月号 巻頭言
太字引用者
客観性・論理性・普遍性(そして再現性)を旨とする近代科学は人間の〈個人差〉を大の苦手としています。上の引用は臨床を考える上で大変含蓄に富んだものです。
科学において、ヒトとは、人体とは、心臓とは、骨とは、筋肉とは、血管とは、というように部分として、物質としての研究は得意ですが、「今日のこの人の場合は…」という観点から生きた人間を丸ごと掴まえて対処するためには、科学の王道的手法である「分析」は有効な方法ではありません。
この問題について、中村雄二郎の『臨床の知とは何か』の序文に、関係の深い記述がありますので、以下に引用します。
近代科学というと、誰でもわかった気になる単純さがあるけれど、実は多くの要因からなる複雑な構成体である。その点はあとで詳しく述べるとして、今は単純化して理解していただいていい。この近代科学ほど、人類の運命を大きく変えた人間の所産はほかに例がない。あまりに強い説得力を持ち、この二、三百年来文句なしに人間の役に立ってきたために、私たち人間は逆に、ほとんどそれを通さずに〈現実〉を見ることができなくなってしまったのである。(中略)
社会諸科学にくらべると、近代科学の中枢をなす自然科学の方は、現在でもまだ依然として有効性が大きいから、〈厳密科学〉(精密化学)としてのその有効な部分だけ見て、現実や人間経験とのずれを見ない人、見たがらない人が、まだ圧倒的に多い。(中略)
では、一般的にいって、近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった〈現実〉あるいはリアリティとは、いったいなんであろうか。これもいまこの〈序文〉では、大ざっぱに言っておくしかないが、その一つは〈生命現象〉そのものであり、もう一つは対象との〈関係の相互性〉(あるは相手との交流)である。(中略)
したがってそこでは、生命現象のもたらす意味や発生、自立的な振舞い、自己創造などが真っ向から扱われることがないのである。
中村雄二郎著『臨床の知とは何か』岩波新書 pp.3-5
太字引用者
これ以降も近代科学が生命を前にしたときの問題点を実例をあげつつ紹介していきます。
ここで言いたいことは野口整体が対象としてきたものが〈生命現象〉そのものであるということ、そして他者の生命に働きかける際に重きを置いているのが〈関係の相互性〉である、ということです。
愉気という行為が象徴的ですが、属人性が強い双方向性の氣の交感作用であるため、愉気をする者と受ける者との関係は絶えず固定的ではなく融通性に富んだ一期一会のものとなります。
そしてそこに自ずと浮かび上がってくるものが「個人」ということになります。生き物の中でも特に人間は「誰が」「誰に」「何を」するのかで結果が大きく変わるのです。「ペニシリンショック死の特異体質…」というところを読むと、今であれば新型コロナワクチンの副反応が容易に思い起こされると思います。
半世紀以上前からこうした問題が取り沙汰されている傍らで、「個人差」や「例外」という言葉を盾に不特定多数の「国民」にワクチン接種を推奨していることは注目すべき事実です。
それは近代科学が「人体」や「ウィルス」といったミクロの研究に没頭して、生きた人間の固有の感受性や体質といった身心のマクロの世界を無自覚または故意に無視してきたことの証左といえます。
誤解のないように書いておきますが、これは何も「近代科学がだめで整体が素晴らしい」という話ではありません。科学的医療の力は自他共に認められるもので、少なくとも向こう100~150年はその権威を失うことは考えられません。
しかしその現実認識とパラダイムに限界があることはもっと広く認知されるべきだと思います。現状では正規医療従事者の多くは代替療法を貶す、一方代替療法家の一部の人は正規医療を貶す、といった不毛な論理が目に付きます。
これについては私の舌足らずの弁明よりも河合隼雄による『ブックガイド心理療法』の以下の部分が端的なのでこちらも紹介いたします。
著者(中村)もいうようにも医療のなかで「臨床の知」がぜひ必要であるのに、「医学」のほうはそれから遠ざかる傾向を見せている。そのような点で医療の世界で、医者と臨床心理士が協力し合ってゆくことは、今後の医療の在り方を考えるときに、きわめて重要なこととなるであろう。そのとき、臨床心理のものが医者との協力とうことで安易に科学的な医療モデルに従ってしまうと、その存在意義をおびやかされることになるだろう。近代科学一辺倒の人に臨床の知の大切さを知らせるのは、たいへんかもしれないが、われわれの存在の意味を明確にするためには、臨床の知の本質を知り、それを他に伝える努力を払わねばならない。その点で、本書(『臨床の知』)は、大いに役立つものである。
河合隼雄『ブックガイド心理療法』日本評論社 p.195
()内、太字引用者
先にも述べたように野口整体の指導者も臨床心理士と同様に「臨床の知」を大切せねばならない立場にあります。
しかし世間の理解を焦る余り、「こうすれば、こうなる」といった単純明快なハウツー式のメソッドを作り出して疑似科学的なモデルに寄せていくと、ともすれば自らを科学的医療のまがい物やセカンドラインに貶めることになりかねません。いわば上のような行為は、自分たちの存在意義を自分たちで脅かすことにもなりかねないのです。
やはりたいへんであっても、整体法の存在の意味を確固たるものにするためには、我々が臨床の知の本質を正しく深く理解し、それを他に伝える努力を払う必要があると思います。
以上、臨床家向けの記事になってしまったかもしれませんが、これから野口整体を実践してみようという方にも参考になると思います。わかりにくい所も沢山あると思いますが、参考にして考えてみてください。