いのちの真相とその周辺

野口整体 ユング心理学 禅仏教を中心に学んだことや日常の気づき、思い浮かべたことなどを綴っています

愛情

本当の意味での愛情は「愛しています」という言葉でなくて、相手の動作の細かいところまで心が行き届いて、大事にしていくことです。

野口晴哉著『女である時期』全生社 p.38

 

「愛情とは取り引きではなく、その人の幸せのために、いくらでも注ぎ込んで、何も求めないことだ。一つでも求めるものがあれば、それは愛情とはいえない。私はそう思う」

野口晴哉著『体運動の構造 第二巻』全生社 p.323

「あの掛け軸、何故”愛深くして慎むこと多し”なの?」

すると先生は煙草を手にしながら言った。

「愛が深いと、疑り深くなり、束縛したくなり、相手の迷惑もわからない。それが相手とって暴力になることだってある。挙句のはては自分も傷つくこともあるんだよ」

私は今まで、私の心に描いていた観念的な「愛」というものが打ち壊されて、いきなり現実を突き付けられたような気がした。

野口昭子著『回想の野口晴哉 朴歯の下駄』ちくま文庫 pp.90-91

先生とは著者の夫 野口晴哉のこと

無意識に働く心

ある日、レントゲン写真を沢山もって、面会に来た人があった。その人が帰ってから先生※が言った。

「いくらレントゲンで写しても、切り開いて見ても、借金も、失意も、嫉妬も見つからないよ。重要なのはそういうことなんだ。

幸いなことに、背骨は外から指で触るだけで、みんな喋っているんだよ。口は嘘をつくけれども、背骨は嘘をつかない。だから面白くてやめられないんだ。僕から言えば、人間は背中が表で、顔は裏なんだ。何十年ぶりであった人でも、背骨を見れば思い出す」

野口昭子著『回想の野口晴哉 朴歯の下駄』ちくま文庫 pp.81-82

※先生とは著者の夫 野口晴哉

人間の心の中にあるものは無限に近いのです。どうして今までの人はこれを導き出さなかったのかと思いました。心の問題など、何でもないと思っているが、無意識に働く心の問題は非常に広範囲であり、重要です。意識して働く心だけを対象にして「しっかりすべし」「元気を出せ」などいくら言っても意味がないのです。ヨーロッパではこの百年間、科学で病気を治そうとして、無意識に働く心を使って力を喚び起こすというもっとも単純で、もっとも科学的な方法※をみんな否定してきたのです。人間を観ていながら、そういう心に気が付かないというのは、本当におかしなことです。

野口晴哉著『体運動の構造 第二巻』全生社 p.321

太字は引用者

※もっとも科学的な方法とは、ここでは効果が明瞭であり合理性が認められる、という意味だと思われます。

野口先生は心の構造を自動車に見立て、意識をハンドル、無意識をエンジンに例えていました。これはフランスの催眠療法家エミール・クーエの理論を引いたものです。意識でいくら自分に命令しても、自分で自分のいうことを聞かせるのはむずかしいですが、無意識の働く角度が変わると意識で「努力」をしなくても知らない間に変っていきます。体の問題であっても、元をただせばちょっとした心の運用のもつれであることが多く、当時の(現代でも)科学の死角になっている生きた人間の心の扱い方について、苦言を呈しておられるのです。

このような態度で「体を観る」ことができるのは、まだ今のところは経験を積んだ臨床家だけです。これを非科学的とみなして全く取り合わないか、現象学的アプローチとして合理性を認めるかで今世紀の人間学の発展を左右する、と思っています。

心に火をつける

「心の角度をフッと変えると、人間はその全部が変わってくる。」と先生は言う。

野口昭子著『回想の野口晴哉 朴歯の下駄』ちくま文庫 p.73

※「先生」とは著者の夫 野口晴哉のこと

相手の心の中に火をつける。火がつけば勝手に燃えていくのです。そういう力が自分の裡にあることを自覚させ、気付かせる。気付けば、自然と相手の中にそういう力が出てくる。運動の調整というのでも、そういう気の角度を変えるだけなのです。その見えないものの角度を変えるということが大変難しいのです。(中略)

…また愉快な顔をしようなどと思ってもできないことがあります。そういう時は、心の中に一点の灯をつけます。希望を与えれば元気になって働きだすのです。そういうようなことを私は常にやっております。

野口晴哉著『体運動の構造 第二巻』全生社 p.21 p.321

整体操法に於いて一番大事なことは、心の問題を主にして、心の中に火をつけるということなのです。そうすると、体が力を発揮する。それは空気の抜けた鞠(まり)を温めると、また弾むようになったり、空気を入れるとタイヤがピンとなるのに似ている。外から働きかけるというよりは、そういう相手の中の見えない力を燃やして、持っている体の力を十二分に発揮させよう、ということで、心に火をつけるということを技術として使っていったのです。

『月刊全生』平成11年10月 p.5

昭和47年5月 整体指導法中等講習会

太字および()内引用者

幸福と健康と

物質の充足が、そのまま幸福につながるという考えは、本当はまだ幸福について深く考えたことのない人のものである。私はヨーロッパやニューヨークの日曜日の公園で、お金がありあまっていながら孤独な老人たちを何度も見かけた。お金で満足は得られても、幸福は、デパートで売っている品物ではないから、かるがるしく大小を論じることはできない。つまり、それは、「幸福の大小ではなくて、幸福について考える人間の大小」なのである。
幸福とは思想である。

―人生なればこそ―

(中略)

幸福と肉体との関係について考えることは、きわめて重要なことである。なぜなら、一冊の「幸福論」を読むときでさえ、問題になるのは、読者の肉体のコンディションということだからである。

ー幸福論ー

寺山修司著『両手いっぱいの言葉』新潮文庫 pp.108-109

「整体で身心ともに健康になり、楽しく幸せに過ごしたい」

こうしたご要望を開業以来何度も耳にしてきました。

病気をしていれば、苦痛から逃れることが最大の関心事になります。したがって病気が治れば健康を、幸せを感じられことは否定しません。

子どもであればなおさらです。風邪を引いても薬で熱を下げればすぐにラクになります。欲しいおもちゃを買ってもらえれば楽しくて幸せです。

しかし大人になっても健康や幸福が家や車のように買えると思っているとしたら、それは今まで健康や幸福についてそれほど深く考えずに済んだ「しあわせな方」ではないかと思ってしまいます。

整体をやっても病気はなくなりません。むしろ病気のときはいよいよ苦しくなります。不幸も災難も次から次へとやってきます。ただ整体を身に修めることで病気に対する見方や、災難に対したときの処し方を変えることはできます。

病気の存在を認めている限り、一つの病気が治っても「またなりはしまいか」という不安の根を断ち切ることはできません。

幸福もまた同じです。天に幸福を願う時、一方では足元の不幸を嘆いています。ようやく手にした幸福感も、不幸という観念に支えられています。

幸福の実在を前提としている限り不幸の影を振り払うことはできません。つぎつぎと新しいおもちゃを欲しがって泣く子を大人は笑うことはできません。

「だから私は幸福を求めません」という人も、そういう自分の考えに酔って、悦に入っている事実に気づきません。

人間にはもともと一切の不幸も病もありません。それらは一時的に頭をよぎる観念にすぎないからです。

白隠禅師が「衆生本来仏なり…六種輪廻の因縁は己が愚痴の闇路なり…」といったのはこの事です。

自分が頭で造った観念を相手に、あそこが悪い、あれが嫌だ、天国だ、地獄だ、ああすればよかろうか、こうしたらよかったろうか、と言っている間に、やがて肉体の期限が切れて自分が何者かもわからずに形を変えていきます。

何もわからなくても全く問題ありません。自分なんてもともと何もなく、何もないまま動いて、変わっていくだけだからです。いのちの真相はいつだって、そのままむきだしです。難しいことは何一つありません。

整体とは自我を使わず、いまの何もない自分の完全性に委ねることです。病気と健康、幸福と不幸、いのちには最初からこうした余分な観念はついていません。

心を洗う必要もありません。たましいを磨くなど余分なことです。空中に釘を打つようなもので、やろうとしたってできません。どれも暇人作り出した観念の遊戯です。そんなことよりも今の目の前のお勤めの方が何倍も大事です。

不思議なことは何一つありません。最初から完全です。おかしな体も病んだ体も見たことありません。生き物は生きている限り、刺激によって反応し、変化する、それが全てです。

その変化のある位相を切り出して病気といい、治癒といっているに過ぎません。これに気づき、一切をいのちに委ねて、今まで通り真面目に真剣に生きていけばそれで十分です。

衆生本来仏、元の木阿弥、最初から問題など何もありません。

おかしなことを言うかもしれませんが、本当だから仕方ありません。「おかしなことを言う」というその判断に、不幸や病の本当の原因があるのかもしれません。

いのちは感覚的な存在ではない。

本能も知恵もいのちの発露に相違ないが、

いのちそのものではない。

野口晴哉『風声明語 2』全生社 p.47

いのちの智慧は総てを知る。

之に任せて生くるものは、無限成長の導きに接することが出来る。

いのちの真理を悟らぬことが、行詰りの本当の原因だつた。

眼玉を捨てろ。

意識から離れろ。

然らば、道は自ずから開かれる。

『野口晴哉著作全集 第一巻』 全生社 pp.585-586

生くるということ

生くるということは生くること自体にその意義があるのであって、死ななければ生きている意義が判らないのではない筈だ。

生くることそのものに生くる意義を感じて生きていくように生くる、そこに第一歩があり、生くるということに十全にその生を発揚して生活する、そのことを全生というのである。

全生ということは永く生くることではない。生を全うするという意でもない。

十全にその生に生ききり、その生を十全に生かしきって生くることを全生というのである。

晴哉

『月刊全生』平成18年10月号 巻頭言

個人差は入口か 逃げ口か

個人差は入口か 逃げ口か

野口晴哉

体育の場合でも、医療の場合でも、個人差を言う時はいつも逃げ口上の時である。何故、個人差ということで逃げるのかというと、そのことが分からないからである。

そして、その行為する責任を、その個人に押しつけて、指導者または医者の責任を少なくしている。ペニシリンショック死の特異体質、生理構造の個人的特性等々、逃げる為に個人差は使われているが、これを入口として研究を進めない限り、体育は個人の健康増進に寄与しないし、医術は医学のものになって、いつになっても個人のものにならないのは当然であろう。

『月刊全生』平成11年10月号 巻頭言

太字引用者

客観性・論理性・普遍性(そして再現性)を旨とする近代科学は人間の〈個人差〉を大の苦手としています。上の引用は臨床を考える上で大変含蓄に富んだものです。

科学において、ヒトとは、人体とは、心臓とは、骨とは、筋肉とは、血管とは、というように部分として、物質としての研究は得意ですが、「今日のこの人の場合は…」という観点から生きた人間を丸ごと掴まえて対処するためには、科学の王道的手法である「分析」は有効な方法ではありません。

この問題について、中村雄二郎の『臨床の知とは何か』の序文に、関係の深い記述がありますので、以下に引用します。

近代科学というと、誰でもわかった気になる単純さがあるけれど、実は多くの要因からなる複雑な構成体である。その点はあとで詳しく述べるとして、今は単純化して理解していただいていい。この近代科学ほど、人類の運命を大きく変えた人間の所産はほかに例がない。あまりに強い説得力を持ち、この二、三百年来文句なしに人間の役に立ってきたために、私たち人間は逆に、ほとんどそれを通さずに〈現実〉を見ることができなくなってしまったのである。(中略)

社会諸科学にくらべると、近代科学の中枢をなす自然科学の方は、現在でもまだ依然として有効性が大きいから、〈厳密科学〉(精密化学)としてのその有効な部分だけ見て、現実や人間経験とのずれを見ない人、見たがらない人が、まだ圧倒的に多い。(中略)

では、一般的にいって、近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった〈現実〉あるいはリアリティとは、いったいなんであろうか。これもいまこの〈序文〉では、大ざっぱに言っておくしかないが、その一つは〈生命現象〉そのものであり、もう一つは対象との〈関係の相互性〉(あるは相手との交流)である。(中略)

したがってそこでは、生命現象のもたらす意味や発生、自立的な振舞い、自己創造などが真っ向から扱われることがないのである。

中村雄二郎著『臨床の知とは何か』岩波新書 pp.3-5

太字引用者

これ以降も近代科学が生命を前にしたときの問題点を実例をあげつつ紹介していきます。

ここで言いたいことは野口整体が対象としてきたものが〈生命現象〉そのものであるということ、そして他者の生命に働きかける際に重きを置いているのが〈関係の相互性〉である、ということです。

愉気という行為が象徴的ですが、属人性が強い双方向性の氣の交感作用であるため、愉気をする者と受ける者との関係は絶えず固定的ではなく融通性に富んだ一期一会のものとなります。

そしてそこに自ずと浮かび上がってくるものが「個人」ということになります。生き物の中でも特に人間は「誰が」「誰に」「何を」するのかで結果が大きく変わるのです。「ペニシリンショック死の特異体質…」というところを読むと、今であれば新型コロナワクチンの副反応が容易に思い起こされると思います。

半世紀以上前からこうした問題が取り沙汰されている傍らで、「個人差」や「例外」という言葉を盾に不特定多数の「国民」にワクチン接種を推奨していることは注目すべき事実です。

それは近代科学が「人体」や「ウィルス」といったミクロの研究に没頭して、生きた人間の固有の感受性や体質といった身心のマクロの世界を無自覚または故意に無視してきたことの証左といえます。

誤解のないように書いておきますが、これは何も「近代科学がだめで整体が素晴らしい」という話ではありません。科学的医療の力は自他共に認められるもので、少なくとも向こう100~150年はその権威を失うことは考えられません。

しかしその現実認識とパラダイムに限界があることはもっと広く認知されるべきだと思います。現状では正規医療従事者の多くは代替療法を貶す、一方代替療法家の一部の人は正規医療を貶す、といった不毛な論理が目に付きます。

これについては私の舌足らずの弁明よりも河合隼雄による『ブックガイド心理療法』の以下の部分が端的なのでこちらも紹介いたします。

著者(中村)もいうようにも医療のなかで「臨床の知」がぜひ必要であるのに、「医学」のほうはそれから遠ざかる傾向を見せている。そのような点で医療の世界で、医者と臨床心理士が協力し合ってゆくことは、今後の医療の在り方を考えるときに、きわめて重要なこととなるであろう。そのとき、臨床心理のものが医者との協力とうことで安易に科学的な医療モデルに従ってしまうと、その存在意義をおびやかされることになるだろう。近代科学一辺倒の人に臨床の知の大切さを知らせるのは、たいへんかもしれないが、われわれの存在の意味を明確にするためには、臨床の知の本質を知り、それを他に伝える努力を払わねばならない。その点で、本書(『臨床の知』)は、大いに役立つものである。

河合隼雄『ブックガイド心理療法』日本評論社 p.195

()内、太字引用者

先にも述べたように野口整体の指導者も臨床心理士と同様に「臨床の知」を大切せねばならない立場にあります。

しかし世間の理解を焦る余り、「こうすれば、こうなる」といった単純明快なハウツー式のメソッドを作り出して疑似科学的なモデルに寄せていくと、ともすれば自らを科学的医療のまがい物やセカンドラインに貶めることになりかねません。いわば上のような行為は、自分たちの存在意義を自分たちで脅かすことにもなりかねないのです。

やはりたいへんであっても、整体法の存在の意味を確固たるものにするためには、我々が臨床の知の本質を正しく深く理解し、それを他に伝える努力を払う必要があると思います。

以上、臨床家向けの記事になってしまったかもしれませんが、これから野口整体を実践してみようという方にも参考になると思います。わかりにくい所も沢山あると思いますが、参考にして考えてみてください。

大人の天心

人間の体で一番健康状態に関連があるのは体の弾力であります。つまり体や心に弾力を持っていないと、体の自然の状態とはいえないのです。硬張って、歳をとって死ぬのも当然だけれども、生きていくという面からいうと、硬張っていくのは正常ではないのです。それで体の弾力を、或いは心の弾力というものをどのような状態でも持ち続けるということに於いて鍛錬という問題が出てくるのです。大人になって天心を保つのは鍛錬が要る。いろいろな問題があって、自然の気持ちを保てないような状態のときにでも尚保ち続けるというのはやはり鍛錬です。

『月刊全生』平成11年9月号 p.5
「大人の天心 昭和47年5月 整体指導法中等講習会」より一部を抜粋
太字引用者

上の文章は野口晴哉先生の「天心」の概念を表しています。人間が自然と一体になって生活する、あるいは自然が身体上に現れるように生活するためには然るべき鍛錬が要る、とおっしゃっています。

このような考えの背景には、野口先生が子どもの頃より愛読したとされる『易経』の影響を感じさせます。冒頭より有名な一節を以下に引用しました。こちらと合わせて整体の心について考えてみることで、より深い理解の助けになるかもしれません。ぜひ参考にしてみてください。

象に曰く、天行は健なり。君子もって自強して息(や)まず。

〔象伝〕天体の運行は健やかで息(や)むことがない。君子はこの健やかさにのっとって、みずから強(つと)めはげむ努力を怠ってはならぬ。

『易経(上)』高田真治・後藤基巳訳 岩波文庫 pp.83-84