ある日、レントゲン写真を沢山もって、面会に来た人があった。その人が帰ってから先生※が言った。
「いくらレントゲンで写しても、切り開いて見ても、借金も、失意も、嫉妬も見つからないよ。重要なのはそういうことなんだ。
幸いなことに、背骨は外から指で触るだけで、みんな喋っているんだよ。口は嘘をつくけれども、背骨は嘘をつかない。だから面白くてやめられないんだ。僕から言えば、人間は背中が表で、顔は裏なんだ。何十年ぶりであった人でも、背骨を見れば思い出す」
野口昭子著『回想の野口晴哉 朴歯の下駄』ちくま文庫 pp.81-82
※先生とは著者の夫 野口晴哉
人間の心の中にあるものは無限に近いのです。どうして今までの人はこれを導き出さなかったのかと思いました。心の問題など、何でもないと思っているが、無意識に働く心の問題は非常に広範囲であり、重要です。意識して働く心だけを対象にして「しっかりすべし」「元気を出せ」などいくら言っても意味がないのです。ヨーロッパではこの百年間、科学で病気を治そうとして、無意識に働く心を使って力を喚び起こすというもっとも単純で、もっとも科学的な方法※をみんな否定してきたのです。人間を観ていながら、そういう心に気が付かないというのは、本当におかしなことです。
野口晴哉著『体運動の構造 第二巻』全生社 p.321
太字は引用者
※もっとも科学的な方法とは、ここでは効果が明瞭であり合理性が認められる、という意味だと思われます。
野口先生は心の構造を自動車に見立て、意識をハンドル、無意識をエンジンに例えていました。これはフランスの催眠療法家エミール・クーエの理論を引いたものです。意識でいくら自分に命令しても、自分で自分のいうことを聞かせるのはむずかしいですが、無意識の働く角度が変わると意識で「努力」をしなくても知らない間に変っていきます。体の問題であっても、元をただせばちょっとした心の運用のもつれであることが多く、当時の(現代でも)科学の死角になっている生きた人間の心の扱い方について、苦言を呈しておられるのです。
このような態度で「体を観る」ことができるのは、まだ今のところは経験を積んだ臨床家だけです。これを非科学的とみなして全く取り合わないか、現象学的アプローチとして合理性を認めるかで今世紀の人間学の発展を左右する、と思っています。