いのちの真相とその周辺

野口整体 ユング心理学 禅仏教を中心に学んだことや日常の気づき、思い浮かべたことなどを綴っています

幸福と健康と

物質の充足が、そのまま幸福につながるという考えは、本当はまだ幸福について深く考えたことのない人のものである。私はヨーロッパやニューヨークの日曜日の公園で、お金がありあまっていながら孤独な老人たちを何度も見かけた。お金で満足は得られても、幸福は、デパートで売っている品物ではないから、かるがるしく大小を論じることはできない。つまり、それは、「幸福の大小ではなくて、幸福について考える人間の大小」なのである。
幸福とは思想である。

―人生なればこそ―

(中略)

幸福と肉体との関係について考えることは、きわめて重要なことである。なぜなら、一冊の「幸福論」を読むときでさえ、問題になるのは、読者の肉体のコンディションということだからである。

ー幸福論ー

寺山修司著『両手いっぱいの言葉』新潮文庫 pp.108-109

「整体で身心ともに健康になり、楽しく幸せに過ごしたい」

こうしたご要望を開業以来何度も耳にしてきました。

病気をしていれば、苦痛から逃れることが最大の関心事になります。したがって病気が治れば健康を、幸せを感じられことは否定しません。

子どもであればなおさらです。風邪を引いても薬で熱を下げればすぐにラクになります。欲しいおもちゃを買ってもらえれば楽しくて幸せです。

しかし大人になっても健康や幸福が家や車のように買えると思っているとしたら、それは今まで健康や幸福についてそれほど深く考えずに済んだ「しあわせな方」ではないかと思ってしまいます。

整体をやっても病気はなくなりません。むしろ病気のときはいよいよ苦しくなります。不幸も災難も次から次へとやってきます。ただ整体を身に修めることで病気に対する見方や、災難に対したときの処し方を変えることはできます。

病気の存在を認めている限り、一つの病気が治っても「またなりはしまいか」という不安の根を断ち切ることはできません。

幸福もまた同じです。天に幸福を願う時、一方では足元の不幸を嘆いています。ようやく手にした幸福感も、不幸という観念に支えられています。

幸福の実在を前提としている限り不幸の影を振り払うことはできません。つぎつぎと新しいおもちゃを欲しがって泣く子を大人は笑うことはできません。

「だから私は幸福を求めません」という人も、そういう自分の考えに酔って、悦に入っている事実に気づきません。

人間にはもともと一切の不幸も病もありません。それらは一時的に頭をよぎる観念にすぎないからです。

白隠禅師が「衆生本来仏なり…六種輪廻の因縁は己が愚痴の闇路なり…」といったのはこの事です。

自分が頭で造った観念を相手に、あそこが悪い、あれが嫌だ、天国だ、地獄だ、ああすればよかろうか、こうしたらよかったろうか、と言っている間に、やがて肉体の期限が切れて自分が何者かもわからずに形を変えていきます。

何もわからなくても全く問題ありません。自分なんてもともと何もなく、何もないまま動いて、変わっていくだけだからです。いのちの真相はいつだって、そのままむきだしです。難しいことは何一つありません。

整体とは自我を使わず、いまの何もない自分の完全性に委ねることです。病気と健康、幸福と不幸、いのちには最初からこうした余分な観念はついていません。

心を洗う必要もありません。たましいを磨くなど余分なことです。空中に釘を打つようなもので、やろうとしたってできません。どれも暇人作り出した観念の遊戯です。そんなことよりも今の目の前のお勤めの方が何倍も大事です。

不思議なことは何一つありません。最初から完全です。おかしな体も病んだ体も見たことありません。生き物は生きている限り、刺激によって反応し、変化する、それが全てです。

その変化のある位相を切り出して病気といい、治癒といっているに過ぎません。これに気づき、一切をいのちに委ねて、今まで通り真面目に真剣に生きていけばそれで十分です。

衆生本来仏、元の木阿弥、最初から問題など何もありません。

おかしなことを言うかもしれませんが、本当だから仕方ありません。「おかしなことを言う」というその判断に、不幸や病の本当の原因があるのかもしれません。

いのちは感覚的な存在ではない。

本能も知恵もいのちの発露に相違ないが、

いのちそのものではない。

野口晴哉『風声明語 2』全生社 p.47

いのちの智慧は総てを知る。

之に任せて生くるものは、無限成長の導きに接することが出来る。

いのちの真理を悟らぬことが、行詰りの本当の原因だつた。

眼玉を捨てろ。

意識から離れろ。

然らば、道は自ずから開かれる。

『野口晴哉著作全集 第一巻』 全生社 pp.585-586