前回の名作…からの流れですが、私にとってこの一冊は名作ではなく思い出の一冊、旅立ちの書です。『病むことは力』は生前野口先生に四段位を許された整体指導者 故金井省蒼先生による処女出版の本です。
病むということ、病気になれる、ということは取りも直さずそれが「力」なのだ、と筆者は本書の冒頭で力説します。野口先生でも直接こういう表現はなさらなかったけれども、これは「野口整体」です。
「病むことは力」と言った場合の力、この力は純粋に生きている力であって、そこには最初から善悪や正誤はありません。
野口先生は人間の生きる力や働きを自動車の摩擦に例えて説明しています。車の摩擦というのはエンジンのエネルギーを上手にタイヤに伝えるときはマイナスの要因として排除しようと考えますが、タイヤが回転して車体を進めるためには路面とタイヤの間に摩擦がなければなりません。つまり「摩擦」という作用自体には善悪はなく、要はそれを利用する人間が活用できるか否かです。
「病気」というのもこれと同じことで、病気が悪い、病気は人間を死に至らしめる悪因である、というのは西洋でも東洋でも一般的な医療の見方です。そしてそれはある面においてそれは間違いではありません。
例えば天然痘は種痘によって20世紀に根絶されるまで、相当数の患者が死に至った言われています。種痘の発明はミクロにおいては近代医学の勝利と見ることもできますが、少し視野を広げるとその後で今度は結核が増え、癌も精神病も一向になくならない。そうすると我々が病気とか治癒とかいっている現象は、変化し続ける生命活動の中である一時の位相を切り出したに過ぎないのです。それを見る者がマイナスと見たりプラスと見たりして、悲しんだり喜んだりしているわけです。そこから転じて、病気になる力と治る力、これらを「同じ一つの生きる力」として一元的に捉え直すところから野口整体は始まります。これについては『風邪の効用』などに非常によく纏められています。
病むということは言うなれば生きているものの特権です。死んでしまった体に結核菌やコロナウィルスが付着しても何も起こらないわけですから。熱が出る、下痢をするということは内外の刺激に対する生理的反射を意味し、それこそが破壊と創造の両面を兼ね備えた生命の平衡要求の現れなのです。我々はこうした全ての生命活動を意識の深いところで許容し、静観する視座を最初に確立しなければなりません。病気を見たらそこに苦しみや不幸を見るのではなく、逞しく生きようとする力を認める心を養わねばならないのです。
修行や努力ではなく、視点の転換です。悟りみたいなものですけれども、これに気づくと物の見方、死生観のようなものがはじめて変わってきます。この視点の転換が行われた上で、活元運動でも愉気法でもやらないと、ただの目新しい代替療法で終わってしまいます。
そんなものはもういくらでもあるわけですから、大した価値はないのです。いくら新しいものを見つけてきたって、人間はいくらでも生まれてくる訳ですから治療の方法論なんてこれからいくらでも出てくるに決まっています。
「こうやったら、こんなんなりました」「すごい、画期的な方法です!」こんなものをいくらやってもしょうがないと思いませんか。いつまで続ける気でしょうか。それも、時に莫大な研究費用をかけて。
野口先生はそれよりも病気を使え、といったのです。金井先生は病気そのものが生きていく力の現れである、といっているのです。
科学的医療がいくら進歩したといったって、新型肺炎がちょっと流行っただけで経済がストップしてしまう。いや科学のせいで、自分の頭で作った観念につまづいて余計に身動きが取れなくなってしまう。野良猫には、いや家猫にもコロナ禍はありません。普通にエサを貰って食べていただけ。これが文明生活というものの落とし穴です。
大きくて立派な角を持った鹿は森で枝にひっかかって絶命することがあるそうですが、人間の場合はそれが大脳だということです。科学は悪いわけではありません。良い悪いはありませんが、どんなものにも利点と限界点、問題点があることを忘れてはなりません。科学万能という信仰に問題があるのです。
話しを元に戻しますけれども、病気に対する見方、認識を変える、この転換が肝腎です。これがなかったら、一生懸命活元運動をやったって野口整体にはなりません。整体入門になりません。これから野口整体を始める人は、ぜひ留意してください。