いのちの真相とその周辺

野口整体 ユング心理学 禅仏教を中心に学んだことや日常の気づき、思い浮かべたことなどを綴っています

正しい立ち方

最近「正しい立ち方」という言葉をよく見聞きするようになりました。

「以前は正しい立ち方がわからなかったけれども、〇〇をやって正しく立てるようになった」うんぬん…といったたぐいの話ですが、はたしてヒトに正しい立ち方などあるのでしょうか。

これは私論ですが、バレエならこう、太極拳ならこう、ということはあっても人間に普遍的な「正しい立ち方」はないと思っています。もともと自然界には「正しい」という概念がないのですから当然ですね。

ただ人間は他の動物と違っていろいろな立ち方の選択肢があり、それらの体勢から生じてくるさまざまな精神状態がある、ということは言えそうです。

ところが現在では多くの場合、仙骨を前傾させて胸が開く姿が正しい立ち方、あるいはきれいな立ち方と言われるようです。

しかしこれは逞しい青年期の男性をモデルにしたものだと思われます。それも西洋近代のものです。

また近代化以降に男女平等や男女同権が謳われるようになり、女の人でもこのような形に当て込もうとする傾向があります。しかしご承知の通り女性の体には生理的な周期がありますから、いつでも同じ型にはめようとすることには無理が生じます。

あるいは思春期以前の子どもに上のような立ち方を四六時中させていたら、心も体もおかしくなってしまう(自然性を失う)だろうと思います。

さらにいえば腰の曲がったおじいさんやおばあさんは、はなから「正しい立ち方」を諦めなければなりません。

しかし私は以前(かなり前ですが)腰の曲がったおじいさんが夏場に中華料理店の厨房で所せましと動き回り、店を切り盛りしている姿をテレビで見たことがあります。今なら熱中症のリスクがどうのこうの、と言われそうですが全く元気そのものでした。

もしこのおじいさんの腰を無理やり伸ばしたら、技術面や体力面などほうぼうのバランスが崩れてしまうかもしれません。

おそらく日本では江戸時代の中期までそんな立ち方をしよう、させようとする人はほとんどいなかったと思われます。そのために幕末になって新しい洋式戦闘の訓練と称して我々がいま馴染みのある立ち方や走り方が導入(強制)されたと言われています。

簡単にいえばいま正しい、美しいといわれる立ち方は時代的にも、地域・文化的にもニッチな価値観と審美観に支配されたものだということです。

それでももし「正しい立ち方」を学んで調子が良いと感じたのなら、それは今の自分に合っていた、ということです。そこに普遍性を認めようとすると、それは個人を無視したお仕着せの正しさということになります。これは現代に横行する似非科学的な考え方です。

野口先生は体のことに関して「どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る」といっています。さらに「これが判らないようでは鈍っているというべきであろう」とつづけます。

整体法に即して考えるなら、立つにしろ歩くにしろ何よりまず自分自身の裡の要求を大切する姿勢を養うべきです。

しかしただ「自分がしたいようにやればいい」というのはすでに意識に毒された要求です。裡なる要求を「感じる」ためには、一定まで心を澄ませる必要があります。このような心の状態を野口整体では「天心」といってひとつの理想、目標としています。

そうあるために、私なら活元運動に立ち返ることになるわけですが、正しい立ち方は人に聞くのではなく日々新たに自ら創造するもの、という結論になりそうです。

さて姿勢に関する野口先生の文章があるので、その一つをこちらに紹介しておきます。ここにも整体法の考え方がよく表れているので、立姿について考える際にぜひ参考にしてみてください。(太字は引用者)

姿勢が健康に関連があるということを知っている人は多い。

そのため姿勢を正しくせよという声は高いが、それを正しく保つための方法となると、意志の努力に全てを任せているが如くである。

しかし姿勢はもともと体の動きが形として現れたものであるから、動きのもとにある要求と離れて存在しているのではない。意志によらない動きと習性があることを知れば、正しい姿勢を保つということは、蛇を管に入れれば直立するというような考え方以外のものであることが判ろう。姿は勢いの現れと見るところに、姿勢を正しく保つ道がある。

野口晴哉『風声明語 2』全生社 p.25

太字引用者